普段着の文章

物部俊之 日誌 「私はこう考えますけど、あなたはどうですか」




「集団の論理」って、何かなって考える

「集団の論理」って、何かなって考える。

抜粋開始
裁判官になりたての頃、先輩裁判官に言われた。「人間というのは怖いものだよ。大きな組織に入ると、そこの論理に支配される」。教団に従ったかつての若者たちの姿が、いまその言葉に重なる。「人間は弱い。組織に命令されたら簡単には断れない」
抜粋終了

集団の論理というのは、その集団を存続させるための論理と解釈してしまうといけない。集団の論理とは、その集団を守るように見せかけて、集団の中心的個人、大きな声の個人、偉そうにしている個人を守る、利益を誘導させるための論理であり、特定の集団において、集団の論理が問題となる時点で既に、その集団は私物化されていると考える。と、記事を読んで思った。

記事では、人は弱いから組織の命令を断れないとあるけれど、もう一つ、人は無関心だから組織の命令を断らないってこともあると思う。
度々、記事等で国民と警察、国民と機動隊、国民と自衛隊がぶつかっている様子がある。そもそも、どうしてぶつかるのかなと思う。
機動隊の中から、こういうの、嫌だから脱退する人って出てこないのかなと思う。
「イントレビットの4人」という映画を以前見た、その映画を思い出す。
ベトナム戦争時、この戦争はおかしいと脱走したした兵士の話だ。

無関心とは空っぽの入れ物のようなもので、そこに何をどう詰め込まれてしまったかが問題だ、脱走兵の話と合わせて考えれば、違った風景が見えてくるかもしれない。


【オウム死刑執行】林郁夫受刑者、岡崎死刑囚…17人と向き合った法廷 元裁判長「集団の論理に支配」

産経ニュース / 2018年7月27日 7時15分
https://news.infoseek.co.jp/article/sankein_afr1807260063/

 

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私も死刑になるのでしょうか

私も死刑になるのでしょうか、だって、ここ最近で、私は13人の人を殺しました。いえ、顔は知っています、でも会ったこともない人たちです。
いいえ、特に憎いと思ったことはありません、あ、でも、なんだか怖い人たちだなとは思った記憶があります。
はい、顔を知っているのはテレビや新聞で大騒ぎをしていたからです、先頭のカナリヤが印象的だったことも覚えています。
大丈夫でしょうか、私は死刑にならずに済むのでしょうか。
ごめんなさい、自分の心配ばかりして。
だって、テレビでとっても偉い女の人が、これは国民の総意だと言っていました。
私はこの国の国民で税金も支払っていますし、住民票もありますが、死刑に賛同した記憶はありません。いつの間に、私も死刑に賛成したことになったのでしょう。
死刑に賛成したということは私が彼らを殺したということですよね。
だって、だって、しっかり死刑制度を反対していたら、彼らを私は殺さずに済んだのですから。

私は子供の頃から人に迷惑をかけちゃだめ、怪我をさせたらだめだよという社会で生きてきました。ですから、人を殺すなんてとんでもないことだと思うのです。
ええ、どんなことがあってもです。
どんなことというのは、その人がとっても悪い人であってもです。
こういう場合はね、人を殺しても良いんだよという例外はないと思っています。

私は今月13人の人を殺しました。
そのことで、私は一生多生の傷を背負ってしまいました。
私は幸せなのでしょうか。

オウム・13人全員死刑執行「リアルタイム死刑速報」に戦慄 「見世物になってる」
https://news.infoseek.co.jp/article/sirabee_20161726733/

 

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京都新聞より

5月1日の京都新聞 「立看板撤去 京大が通告書 学生ら抗議、騒然」
私は景観より、意志を発する場を維持することが、これからの人たちのためには有益であると考えるので、大学という場が法律をそのままに受け入れて遵守するという姿勢に不満を持つ。このように記事になることで、この問題は学生から京都市民にバトンを手渡されたと解釈しているのだけれど、先にも書いたアトム化の昨今、京都の人は受け取らないかもなぁとか、ごにょごにょ、思う。
5月2日の京都新聞 「チッソ 水俣病救済終了 公式確認62年 社長が発言」
私的には石牟礼道子の死が大きい、と思っている。62年と2018ー1945 は73年は世代が変わるには十分な時間かもしれないけれど、始末をつけきれない事柄は、継承し続けていく方がいい。これは、5月5日の「福島第一原発トリチウム汚染水 海洋放出 迫られる決断」にもあるように、人の一生程度の時間ではどうしようもないものについては、継承していくしかしょうがないが、あとの世代にしてみれば迷惑この上ないだろうなとも思う。しかし、唯一の被爆国と自認する国が、海を被爆させ、もちろん、その海は他の国とも接しているわけで、これからは日本は唯一の被爆国であると拳を振り上げる際には、あんまり上げずに、こそこそと、一応、被爆国なんですけど、くらいに収めておくほうがいいかもとか思ったりする。
5月5日の京都新聞 「幣原元首相 直筆原稿か 9条の意義強調」
宮城県で、当時のラジオ放送のための原稿が見つかったとのこと、これはぜひ読んでみたい。自衛隊は本来専守防衛のはずなのに、他所の国でも戦う、つまりは戦争をする方向へ進んでいる。
もう一度、焼け野原の中から生まれた憲法を再確認する意味でも、原稿を全文読んでみたいと思う。

 

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私はがちがちの護憲派ですけど


憲法を変えようという人たちは、(私はがちがちの護憲派ですけど)、他国から攻めてこられたらどうするんだと言う。私は攻めてこられる分には、いまの自衛隊があるのだから、憲法をいま変える必要はないやんと思うし、もしも、それだけでは、足りない足りないというならば、それは保険とよく似ているなぁと思う。将来の不安を補おうとたくさんの保険に入って、保険料の多さに目をむいている様子だ。

他国が攻めてきたらというのはどうもプロパガンダっぽくていくらかの不信感がある。それよりも、「他国を攻めてしまったら」というロジックで考えていく方が私には馴染みやすい。
 少なくとも、70数年前、他国を攻めた。そして、中盤からぼろ負けをしたので、どうも戦争で苦しんだ、辛かったという印象ばかりが残り、戦争を仕掛けたという気分が人の中にあまり残ってはいない、そんな気がする。
 言い換えれば、戦争を始めたことに、あんまり反省していないなということで、それは、今度は勝つ方にへばり付いて戦争するぞという気分を隠し持っているということではないかなと私は疑っているし、多分、アジアの他の国の人たちも、日本はなぁと思っているのではと思う。

昨日のとある催しの後、その場を通り過ぎる憲法を護れのデモを見送りながら、そんなことを思った。

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大学のパソコン転売―福岡県警

~
仕入れて販売すれば、利益は「販売価格ー仕入れ価格」だ。仕入れ価格が0ならば、販売価格がそのまま利益になる。
 良いとされる大学に入学するには、より効率的な勉強が必要になる。一定の時間内にどれだけ入試問題に正答を書き込むことが出来るかということだ。

横領容疑で准教授逮捕=大学のパソコン転売―福岡県警

 時事通信 / 2018年5月2日 17時50分

https://news.infoseek.co.jp/article/180502jijiX870/

「効率的に、より効率的に、そして最大の利益を得る」を望むには仕入れ価格が0でないとならない。
それを思うとき、こういった事件は起こるべくして起こり、今後、増えていくのではと思ったりする。
 「悪いとされることは、しちゃだめ」
 、という共通認識が根底にある社会は、実のところ、生きていきやすい。ベンチに財布を忘れて慌てて戻ってきたとき、財布がそのままにある社会と、とっくに無くなっている社会とどちらが住みやすいかということだ。競争し勝ち抜くことを是とする社会はあまり住みやすくない。そして、住みよい社会に生きる方が幸福だ。
では、悪いことをしちゃだめという共通認識をどう育めば良いのか。どうも、そこのところが難しい。

私は、本来、家庭内での教育によって成立されるのが良いと思うのだけれど、私も含め大人ってのはなぁ。
といって、学校で一律にそういうのを学ぼうというのは、どうも、気色悪い、森友じゃないけど。

人間関係が薄れ、人は「個」になっていく。「個」になっていくというのは、単純に人間関係が無くなっていくというだけでなく、自分の「顔」を無くしていくということだ。
 顔を無くしてしまうというのは、責任を取らなくてもよいということだ。
 顔を無くしてしまった人たちの集合を大衆と呼ぶならば、どうすれば、「顔のある人」に戻ることが出来るか。
 哲学を学べ、というのが私の気分ではあるのだけれど。
ま、難しい。

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笑う人

~会話の端々で、あっはっはと声を上げて笑う人たちがいる。
 一つのセンテンスが済むたびに、脳内にて、句読点をあっはっはと変換しているのだろう。
 特に面白い話でもないのに、声を上げて笑う。
なぜか。
 単純である。反論、己の発言に対する意見を抑え込むためである。
会話に笑い声を追加する人は会話をしようとしているのではなく、命令をしているのだ、宣言をしているのだ、自分語りをしているのだ。
 耳につくあっはっはという音を聞きながらそんなことを考えていた。

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TOKIO山口事件、中条きよし


TOKIO山口事件、中条きよし「2人もいたら、蹴飛ばして逃げられる」発言に批判殺到
https://www.j-cast.com/2018/04/27327322.html?p=all

実を言うと、この記事で一番に驚いたのは「俳優の中条きよしさん(72)が」の一文。
 必殺仕事人で三味線の弦を使い、連続殺人を、いやいや、悪を懲らしめていたわけですが、そうか、もう72歳になっていたのか。
自分自身の歳を考えれば、不思議ではないのかもだけれど。

さて、中条きよし的な発想は、男全般の心持ちの、ずっと奥の方には、大抵あると思う。

行かなきゃいいじゃん
行くからそんなことになったんだよ

私にはその発想はない、これは言い切る。
では、何故ないか。
それは私が立派な人物である、わけでは全くない。私は立派な人間ではない。そこらに転がっている、ただのおっさんである。

行かなきゃいいじゃん、という発想は上下関係をその元とする。
 上下社会の中で生きる男は、多分、女性もそうだろうけれど、上の意見を下の人間は自分の意見として受け入れる。社長でもないのに、「うちの会社は」なんて表現が戸惑いなく、会話に出てくるのが、その現れだと思う。
だから、この事件でも、女子高生の立場に立っての発想ではなく、山口達也の立場の発想で男は考えてしまう。
だから、行かなきゃ、来なきゃいいじゃん、そしたら、俺もキスを要求しなかったのにさ、ふふん。
どんなに、こういった行為はダメですよと言っても、男の腹の中の奥底には、来なきゃいいのにさ、いい迷惑だよ、という気分が残滓のように残っている。

私に、それがないと言いきるのは、私は子供の頃、かなりのいじめられっ子だったので、いじめられる側からの風景として、大きな声や拳を見るからだ。
 暴力は恐ろしいと思う。
 大きな力には、中条きよしの「蹴飛ばして」なんて無理である。体を強張らせて、衝撃を最小限度に抑えたい、もう、それが精一杯である。

多分、中条きよしは自分の発言をまっとうなものだと思っているだろうし、腹の奥底では、その通りだと思っている男も多いだろう。
 蒙昧魑魅魍魎を、言葉によって、陽の照る場所に引っ張り出して、分解・展開して行くことが大事だと、なんだか、中条きよし72歳に衝撃を受けつつ思った。

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はぁ、男の約束ですか

~
『男の約束』反故にした小西氏のナゾ 「防衛省に通報しない」明言も… 自衛官との暴言騒動

夕刊フジ / 2018年4月27日 17時1分

https://news.infoseek.co.jp/article/00fujisoc1804270009/

 暴言を自衛官が政治家に吐いたこの事件は闇に葬られるわけにはいかない。明るいところできっちり白黒つけておかないと、これから先、面倒なことになる。このことは70年以上前に学んだはずだ。
ということで、なんというか、男の約束、うーん、オトコのヤクソク、カタカナにするとなんだか、妖しげだ。
どうもね、私はこういう男のなんとかってのは疑ってかかる。
 子供の頃から、男の子はしっかりしなさい、女の子はやさしくなりなさい的な家庭教育、これは、本来、男というものはしっかりしておらず、女というものはやさしくなく、ただ、これでは男社会を継続していくことができないから、男の子の背中を押し、女の子が前に出すぎないよう制する、それが男らしく、女らしくという認識に変わり、男の約束というのも、男ってのは、しっかりしてないから、でもそれでは都合が悪いので、「男には男の約束ってのがあってな、これは男としてどうにも守らなきゃならんもんなんだぞ」、という伏流のようなメッセージを植え付けてるのではないの、と思ったりする。
 男の約束、どうも空々しい気がするのだ。
まだ、「大人としての約束」と言ってくれる方が受け入れやすい。

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法律と掟とはまったく違う

~
法律と掟とはまったく違う。
法律はまずは弱者のために、掟は強者のためにある。
だから、法律が強者のためのものになったとしたら、それは民主主義の崩壊でもある。

と、いうようなことを記事を読んで思う。

 セクハラ問題 日本社会の現実は「告発した女性が悪い」
https://news.infoseek.co.jp/article/postseven_669933/?p=2

強者の期待するところの予定調和から外れたことを行うのは難しいし、それでも踏み出せば、被害者が悪い、強者様にご負担をお掛けしたと、強者の論理を受け入れる弱者が寄ってたかって被害者を罵る、つまりは罵るという行為によって、強者様に阿るわけだ。
アドラー心理学では人間の関係において、上下関係を許さない。あくまでも横の関係を本来とする。
それは、その方が幸福な人間関係を築きやすいからだ。
 上下関係の主たる関係の社会では上のおっしゃるとおりと下の人間は受け入れる。
 上の立場の人間はバカ殿みたいで楽しいだろうが、下のものは大変だ。で、当然ながら、いまの格差社会と同じく、下のものがほとんどで、つまりは多くの人たちが幸福でいられないというならば、それは幸福な社会ではないということだ。
 社会を構成するべき多くの人たちが幸せでなければ、それは幸せな社会ではない。

考えてみれば、女性の選挙権、これ自体、戦後からだ。
まだ、70年ほどの歴史しかない、
それは、私たちが民主主義初心者であるということでもある。

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徴兵制を復活させて、国を護ろうという発想は

~
http://txbiz.tv-tokyo.co.jp/zipangu/vod/post_152723/

途中からしか見ていないけれど、興味深かった。
 徴兵制を復活させて、国を護ろうという発想は、もっともぽくあるけれど、それは軍人の発想でしかない。
 私は軍人でないので、軍人の発想は出来ない。

 私は鶴見俊輔の本を少しばかり読んでいるので、彼の言う「国は悪い、国は悪いことをするものだ」という発想から考えを進めたい。
 戦争にはたくさんの人が必要だ。
たくさんの名もなき人たち、国同士が憎みあっても、それぞれの国の人たちが理解し合えれば、戦争を遠のかせることができると言いたい。
 国は悪い、だから私たち個人の小さな人間達で理解し合っていこう、その方策を見つけ、育てることを目指す方が、戦争するよりずっといい。
 中国では王様が誕生して、言いたいことを言おうとすれば命がけだ。日本は安倍首相は嘘つきだなと言っても逮捕はされない。
この逮捕されない内に、しっかりこの糸口を見つけていかなければ手遅れになってしまう。
 番組を見ながらそんなことを思っていた。

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ふれあいホーム 「どうぞ」

~
取引の業者さん、車の内張りだとかの修理交換のお店、用事があり行ってきたのですが、ふと、そのお店の裏側のお店の店名「はい、どうぞ」。変わった名前だな、何屋さんかなと少しばかり覗き込む。店は既に営業時間を終わっていましたが、入り口にチラシ、子供食堂とあります。

http://www.eonet.ne.jp/~douzo/
ふれあいホーム 「どうぞ」というNPO法人らしい。

 子供食堂の他、歌声広場やほっこりサロン、あぁ、こういうの面白いなと思いました。
 人は居場所が多い方がいい、居てもいい場所、そこに行けば誰か居て、お喋りも出来る、そんな場所があればいい。

子供食堂は子供100円、大人300円。年齢に関わらず来てくださいとのこと、ま、もっとも、こんなおっさんがやって来ては警戒されるでしょうから行きませんけど。

去年辺りから、近くのお墓に寝起きしていたおばあさんがおりまして、少しばかり噂になっておりました。
 人の話を聞くと、娘と暮らしていたのだけれど、折り合いが悪いらしい。いくつかのお墓を転々とし、警察や近所の人たちがやって来ると、逃げだし他のお墓に移るとのこと。

お墓に布団を敷いて寝ているらしい。冬は寒かっただろうなと思いますし、雨はどうしているのでしょうね。

結局、「居てもいい場所」が無くなってしまうと、こういう状況になるのでしょうか。
 家庭というのは、いざ、壊れてしまうと、修復はかなり難しい。
 鶴見俊輔著 「家の中の広場」
この文章を書くために読み返してはいないので、曖昧な記憶ですが、日本の家屋は襖で仕切られている、鍵の掛かるドアがない、それは、見方を変えれば、家族がいきなり襖を開け、包丁を寝ている自分に突き立ててもしょうがないと思える関係、もしくはそんな可能性は皆無であると思うことのできる信頼感が家族には必要、多分、そういう感じのことが書かれていたような気がします。
つまりは、その信頼が少しで揺らいでしまった時、日本の家族は成り立たなくなってしまいかねない。

先日のニュースでもあった、70代の父親が40代の息子をプレハブ小屋の中に設えた牢屋に閉じ込めていたという事件。
 二人は確かに家族であったはずなのに、檻という部屋に鍵を付けるという行為に至った。

多分、家族という繋がりは、思っているより、かなり脆いもので、脆いものであるということを前提に関係を大切に繋いでいく方が生きていきやすい。
 「家族だから」何をしても構わない、許してもらえる、そういった意識は止めて、繊細に関係を継続していくようにしなきゃならないのでしょうね。

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日本人はなんて悪い奴なんだ、と5歳の時に思ったと

~
鶴見俊輔は、日本人はなんて悪い奴なんだ、と5歳の時に思ったと、何処かに書いていた。

ベトナム人実習生 有休希望で強制帰国 千葉受け入れ団体
https://mainichi.jp/articles/20180408/k00/00m/040/084000c

 記事を読んでそれを思い出す。
 花岡事件をはじめ、日本人は同調圧力が強すぎるのか、それとも、アドラー心理学で言うところの、優越性コンプレックスか、自分より下であると他者を認識すると、温和な人でも攻撃的な姿勢を現すことが多い気がする。

私はその日本人の国民単位での性向を、徳川時代のおよそ300年に形成されたと思っているので、こういうのって、だめだよねと気づいてからも、300年かけていかないと、変わらないかもしれないと思ったりもする。

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「われわれの小田実」を書店へ受け取りにいく

インターネットは恐ろしい、マウスをクリックするだけで買い物が出来てしまう。その行為と結果の釣り合いの悪さ、それとブラックボックスへの無関心さについては、ごにょごにょといずれ書いてみたい。

http://www.fujiwara-shoten.co.jp/shop/index.php?main_page=product_info&products_id=1329&zenid=f70b507d31b28599bbea224f9add21d3

インターネットで注文していた「われわれの小田実」を書店へ受け取りにいく。
これは亡くなった小田実に、付き合いのあった人たちから送られる追悼集で、まだ、半分も読んでいないけれど、かなり興味深い。小田実は、人を熱くさせる、そういう力を持った人だったのだなと改めて思う。

朝、報道番組で、このところの北朝鮮に関わる国際問題で、日本は蚊帳の外であると嘆いていた。
そして、日本が蚊帳の外であることを、なんとか、好意的に、もしくは、無難に受け止めようとしていた。

おかしなことを言うと思う。
日本はアメリカの植民地であるので、これは卑下しているわけでもなく、沖縄の基地問題から、野球人のメジャーリーグにいつかは行きたいというその気質まで考えれば、「である」と言いきっても問題がないと思うけれど、植民地が国際問題に関わるのは無理で、その無理が現状に現れているにすぎない。
もし問題があるとするなら、植民地を受け入れていることについての問題提起がないことだろうし、ただ、それじゃあ、この状況何とかしようと、日本会議のような国粋主義っぽい方向へ走ると、全体主義の苦しい社会になっても嫌だし、八方塞がりのような気分で、いくつもの政治家の顔を思い浮かべ、あれもだめ、これもだめと拗ねているわけだ。

小田実ならどう動くだろう、そう考えたとき、こういった大きな問題こそが、国が解決する類のものではなく、市民が解決していく問題ではないかと思う。
つまり、それぞれの国の市民が、それぞれの国から独立して、独自に手を繋いで意志を発する、それができればと思う。

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一軒隣りの中国ではえらいことになっている

一軒隣りの中国ではえらいことになっている。
国家主席2期10年という制限を、憲法を変えることによって無しにしてしまった。
中国、中華人民共和国の歴史は100年ほどだったか。その間には、毛沢東もいたし、それを差し引いて、結局は、中国の人たちは、またもや、王様を掲げてしまったのだなぁ、社会主義という時代は少なかった、ましてや、民主主義においておやである。

「安倍首相は阿呆である」、こう書いても、私は警察に捕まることはないけれど、いまのところは。
でも、中国で主席はさぁ、というと、なんせ、相手は王様である、迫害されるのだろうなぁと思うと、日本という国をどうも私は好きでないところもあるのだけれど、無難な国に生まれて少しばかりほっとしてもいる。
経済を強力に進めようとする場合、民主主義の国よりも独裁国家の方が都合がいい、反対を弾圧しやすいから。
それを思うとき、中国の人たちは、経済を優先し、王様を支持したのだ。
経済のグローバリゼーションは全体主義の独裁国家を産み出す母体となる、その例を、今まさに見ているのだと改めて思った。


高級官僚のお歴々はなぜすぐバレるような改竄という嘘をついたのか。

テレビの報道番組で、このことは民主主義の根幹を蔑ろにする大問題だと言っていた。
確かにそうだろうと思う、その上で、少しばかり思ったことを書いてみる。
丸山眞男は世界に民主主義の国は存在しない、あるのは、民主化途上の国なのだというようなことを、何かで言うか書くかしていたと思う。
彼がそう言ったのは随分前の話だったと、これまた、思うのだけれど、いま現在も民主主義の国は地球上に存在しないのではないかと疑ってかかってみたとき、官僚の改竄は、また、違ったものに見えてくる気がする。
彼らは安倍首相を中心とするかもしれない官邸のために改竄したのではなく、民主主義の国ではないこの日本において、ある意味、国の舵取り役でもある彼らは、王様の期待するところを為すために書類を改竄したのではないか。
「拒否できない日本」など、その手の本を複数読んだ私は思っていたりする。
つまり、アメリカの一部の勢力から、日本の首をそろそろすげ替えろという指令を得て、安倍首相の首を切るかなということではと思っていたりする。
日本はアメリカの属国である、植民地であると言う人たちも一部にいるが、実は私もその一部である。
少なくとも、日米地位協定や沖縄の現状を思えば、そういう結論になってもそれほど不思議ではない。

アメリカはどの政治家が日本の首相になるのが、自分たちにとって最善であるのだろうと考えるだろうか。
コイズミ周辺かなぁとか思ったりする、なんとなくだけど。

 

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「お前が言うな」という反論を恐れるな

「お前が言うな」という反論を恐れるな。
私は立派な人間ではない。いわゆる人格者ではない。
毎度、ああだこうだと悩み、自分の行為に対して後悔することも多い。

だから、私は、少しばかり、まっとうなことを書こうとするとき、読んだ人は、お前が言うなよと思うかもしれない、と、私は恐れている。

ただ、新聞を読めば、えらく賢いはずの人たちが文書を改竄したり、散々である。
標準偏差は自分が全員の中のおおよそどの辺かは教えてくれるが、その全員の層そのものが下がってきているのではないか、そんなふうにも思う。

この下がりつつあると思うところの層を上げていくには、お前が言うなよという暴力的な力を持つその言葉に抗って、「自分は出来ていない、でも、言うべきだと考えるから言うのだ」という態度を持つしかないのでは、そう考える。

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途中 

貴種を折れ
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記事 内田樹の研究室 尖閣インシデント を読んで思うこと

記事 内田樹の研究室 尖閣インシデント を読んで思うこと。
http://blog.tatsuru.com/2017/12/20_1833.php

これは、尖閣諸島をきっかけに日本と中国が戦争になったとき、自国アメリカはどういう対応をするかをシュミレーションしたホワイトハウスからの話ということで。

日本のメディアやコメンテーターだとか、有識者という人たちは、「戦争になったらどうするのだ」という地点から考えたり、もっともらしいことを喋ったりする。
彼らの大前提として、うちは戦争する気はないんだけどね、でも、向こうから戦争をしかけてきたら、対応しなきゃならないじゃん、としている。

私は、戦争というモノは必ず起こるものだという前提のもとで、如何に戦争を向こうへ遠ざけるかが大事だと思っている。
つまり、「うちも戦争仕掛ける」かもしれないという前提を目前に置く。つまり、無幸の私たちが、受身的に戦争に追いやられるのだという前提を廃し、事と次第によっては戦争を仕掛けるかもしれない、私は自衛のための戦争は存在しないという考え方だから、当然、能動的に戦争を仕掛けることもあるだろうとなる。
そう考えるからこそ、戦争を能動的に避けようという発想になると考える。
つまりは、戦争になったらどうしよう考えるのではなく、戦争にならないようにするにはどうしたらいいのだろうと考えるのが、まずは一番の大事なわけだ。
そこのところを抜いて、戦争になったらどうしよう、今のうちに軍備を増やそうだとか、憲法を変えようなどとは、愚としかいいようがない。

70年以上前、鬼畜米英と叫んでアメリカ人は人間でない、鬼だ、自分たちとまったく違う恐ろしいやつらだと国民を認識させ、終わりどころの決めていない戦争を続けた、国民もずいぶんと言葉に踊らされた。
いま、日本人のわりと多くの人たちが、中国、それと韓国に良い印象を持っていないのではないか。
そして、それは、中国や韓国の人たちの中に、日本にあまり良い印象を持っていない人たちが増えてきたということでもあると思う。

ここで、私は鶴見俊輔の「言葉のお守り的使用法」で解説された、単純な言葉、意味のない、でも勢いのあるスローガンというものが、如何に人の考え方に影響を及ぼしてしまうかを改めて思う。

国同士が反目しだしたときこそ、一人一人の国民が他国の人たちと仲良くしたい、仲良くする方がお互い幸せなのだということを思い出していかないと、それこそが、戦争を遠ざける一番の方法だと思う。

 

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「あなたに届けるカタチの未来」という記事があった

今朝の京都新聞 2018.01.01 で、
「あなたに届けるカタチの未来」という記事があった。
限界集落という表現は知っていたが、不感地帯という表現を初めて知った。
携帯電話の繋がらない集落ということである。携帯電話のアンテナを建てても採算がとれなくてアンテナが建たないらしい。
そこに住む80代の女性と、もう一軒 地域外から転居してきた30代女性のインタビューがあった。

80代は健康面などの不安を語り、30代は携帯からの解放感を語る。

間の世代である私は、健康面も気にかかるし、また、電話嫌いでもあるので、こういうのもありだなと単純に思う。
ここで、少しだけ踏み込んで考えてみるなら。
街に居れば期待する医療サービスを受けることが本当にできるのか。
つまりそれだけのコミュニティが街に成り立っているのかという問いかけである、それは見かけのこんな設備があります、盛りだくさんのサービスがありますというのではなく、必要な時にそれらは機能するのかという実質的な問いかけである。
もちろん機能するだろうけれど、それは期待するほどのものであるのかどうかだ。
解放感と安心は、時として、相反する概念ともなる、解放感をとれば安心が減り、解放感を諦めれば、安心が増す。
どの辺りで妥協するか、これが30代と80代の意見の違いの元にある。ただ、重要な要素として、コミュニケーション能力を忘れてはならない。
内田樹がネットか本で、コミュニケーション能力とは、気の合うもの同士がわいわい楽しくやりとりをする能力ではなく、関係が壊れたときにどう修復するか、その修復能力こそがコミュニケーション能力だと書いていた気がする。
この文章を書くために読み返していないけれど、多分そうだったと思う。
それを一つの要素として世代による意見の違いを見るならば、コミュニケーション能力を磨いてきたか、磨かずにいたかの違いが、健康面以上に大きな要因かもしれないと考える。
コミュニケーション能力ほぼ皆無の私としては、それ以前の問題だと笑われるかもしれないけれど、不感地帯で住むのもありだなぁと思ったりする。

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以前、テレビで八王子つばめ無料塾の活動を見て関心を持っていた

以前、テレビで八王子つばめ無料塾の活動を見て関心を持っていた。
いわゆる貧困家庭の子供に勉強を無料で教えるというものだ。
先ほど、思い切って、そういう無料塾にメールを送った、何かお手伝いできませんかと。

私自身の考えの一つとして、明治以来の大学を頂点とする公教育に疑問もいくらかあるし、経済学者 宇沢弘文の東大解体の活動にも納得する。それに、昨今の奨学金の返済問題を考える時、このレールに子供を乗せていくのは、本当にありなのかという疑問もある。
こういったものを含みつつも、なんらかの形でお手伝いしていくのも、単に考えたり思ったりするだけでなく、「行動するのだ」という意味でやってみるのもありかなと思っている。
まぁ、どうなるかはわからないけれど。

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自動車は必要か

自動車整備業者としてはあるまじき発想だけれど、こんなに車って必要なのかなぁと思っている。
随分前、「クルマを捨てて歩く! 」(講談社プラスアルファ新書) 杉田聡著と 「自動車の社会的費用」 宇沢弘文著を読んだからなのだけれど、宇沢弘文の自伝があったので読んでみる。
「経済と人間の旅」宇沢弘文著 日経ビジネス人文庫

彼の経済学の難しい本は、私には無理だけれど、宇沢弘文の一般向けに書いた本は何冊か読んでいる。
その彼がどんな人生を送ったのか、読んでいて、これは愉快だと思った。濃い人生を送った人なのだなぁと思った。
フリードマン、破門の話や下村治のことなど、なかなか、楽しい。

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