普段着の文章

物部俊之 日誌 「私はこう考えますけど、あなたはどうですか」




記事 内田樹の研究室 尖閣インシデント を読んで思うこと

記事 内田樹の研究室 尖閣インシデント を読んで思うこと。
http://blog.tatsuru.com/2017/12/20_1833.php

これは、尖閣諸島をきっかけに日本と中国が戦争になったとき、自国アメリカはどういう対応をするかをシュミレーションしたホワイトハウスからの話ということで。

日本のメディアやコメンテーターだとか、有識者という人たちは、「戦争になったらどうするのだ」という地点から考えたり、もっともらしいことを喋ったりする。
彼らの大前提として、うちは戦争する気はないんだけどね、でも、向こうから戦争をしかけてきたら、対応しなきゃならないじゃん、としている。

私は、戦争というモノは必ず起こるものだという前提のもとで、如何に戦争を向こうへ遠ざけるかが大事だと思っている。
つまり、「うちも戦争仕掛ける」かもしれないという前提を目前に置く。つまり、無幸の私たちが、受身的に戦争に追いやられるのだという前提を廃し、事と次第によっては戦争を仕掛けるかもしれない、私は自衛のための戦争は存在しないという考え方だから、当然、能動的に戦争を仕掛けることもあるだろうとなる。
そう考えるからこそ、戦争を能動的に避けようという発想になると考える。
つまりは、戦争になったらどうしよう考えるのではなく、戦争にならないようにするにはどうしたらいいのだろうと考えるのが、まずは一番の大事なわけだ。
そこのところを抜いて、戦争になったらどうしよう、今のうちに軍備を増やそうだとか、憲法を変えようなどとは、愚としかいいようがない。

70年以上前、鬼畜米英と叫んでアメリカ人は人間でない、鬼だ、自分たちとまったく違う恐ろしいやつらだと国民を認識させ、終わりどころの決めていない戦争を続けた、国民もずいぶんと言葉に踊らされた。
いま、日本人のわりと多くの人たちが、中国、それと韓国に良い印象を持っていないのではないか。
そして、それは、中国や韓国の人たちの中に、日本にあまり良い印象を持っていない人たちが増えてきたということでもあると思う。

ここで、私は鶴見俊輔の「言葉のお守り的使用法」で解説された、単純な言葉、意味のない、でも勢いのあるスローガンというものが、如何に人の考え方に影響を及ぼしてしまうかを改めて思う。

国同士が反目しだしたときこそ、一人一人の国民が他国の人たちと仲良くしたい、仲良くする方がお互い幸せなのだということを思い出していかないと、それこそが、戦争を遠ざける一番の方法だと思う。

 

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「あなたに届けるカタチの未来」という記事があった

今朝の京都新聞 2018.01.01 で、
「あなたに届けるカタチの未来」という記事があった。
限界集落という表現は知っていたが、不感地帯という表現を初めて知った。
携帯電話の繋がらない集落ということである。携帯電話のアンテナを建てても採算がとれなくてアンテナが建たないらしい。
そこに住む80代の女性と、もう一軒 地域外から転居してきた30代女性のインタビューがあった。

80代は健康面などの不安を語り、30代は携帯からの解放感を語る。

間の世代である私は、健康面も気にかかるし、また、電話嫌いでもあるので、こういうのもありだなと単純に思う。
ここで、少しだけ踏み込んで考えてみるなら。
街に居れば期待する医療サービスを受けることが本当にできるのか。
つまりそれだけのコミュニティが街に成り立っているのかという問いかけである、それは見かけのこんな設備があります、盛りだくさんのサービスがありますというのではなく、必要な時にそれらは機能するのかという実質的な問いかけである。
もちろん機能するだろうけれど、それは期待するほどのものであるのかどうかだ。
解放感と安心は、時として、相反する概念ともなる、解放感をとれば安心が減り、解放感を諦めれば、安心が増す。
どの辺りで妥協するか、これが30代と80代の意見の違いの元にある。ただ、重要な要素として、コミュニケーション能力を忘れてはならない。
内田樹がネットか本で、コミュニケーション能力とは、気の合うもの同士がわいわい楽しくやりとりをする能力ではなく、関係が壊れたときにどう修復するか、その修復能力こそがコミュニケーション能力だと書いていた気がする。
この文章を書くために読み返していないけれど、多分そうだったと思う。
それを一つの要素として世代による意見の違いを見るならば、コミュニケーション能力を磨いてきたか、磨かずにいたかの違いが、健康面以上に大きな要因かもしれないと考える。
コミュニケーション能力ほぼ皆無の私としては、それ以前の問題だと笑われるかもしれないけれど、不感地帯で住むのもありだなぁと思ったりする。

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以前、テレビで八王子つばめ無料塾の活動を見て関心を持っていた

以前、テレビで八王子つばめ無料塾の活動を見て関心を持っていた。
いわゆる貧困家庭の子供に勉強を無料で教えるというものだ。
先ほど、思い切って、そういう無料塾にメールを送った、何かお手伝いできませんかと。

私自身の考えの一つとして、明治以来の大学を頂点とする公教育に疑問もいくらかあるし、経済学者 宇沢弘文の東大解体の活動にも納得する。それに、昨今の奨学金の返済問題を考える時、このレールに子供を乗せていくのは、本当にありなのかという疑問もある。
こういったものを含みつつも、なんらかの形でお手伝いしていくのも、単に考えたり思ったりするだけでなく、「行動するのだ」という意味でやってみるのもありかなと思っている。
まぁ、どうなるかはわからないけれど。

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自動車は必要か

自動車整備業者としてはあるまじき発想だけれど、こんなに車って必要なのかなぁと思っている。
随分前、「クルマを捨てて歩く! 」(講談社プラスアルファ新書) 杉田聡著と 「自動車の社会的費用」 宇沢弘文著を読んだからなのだけれど、宇沢弘文の自伝があったので読んでみる。
「経済と人間の旅」宇沢弘文著 日経ビジネス人文庫

彼の経済学の難しい本は、私には無理だけれど、宇沢弘文の一般向けに書いた本は何冊か読んでいる。
その彼がどんな人生を送ったのか、読んでいて、これは愉快だと思った。濃い人生を送った人なのだなぁと思った。
フリードマン、破門の話や下村治のことなど、なかなか、楽しい。

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京都新聞 ベタ記事だけれど、「ルワンダ虐殺 仏加担 政府委託報告 武器提供」の記事を読む

京都新聞 ベタ記事だけれど、「ルワンダ虐殺 仏加担 政府委託報告 武器提供」の記事を読む。
ようは、ルワンダでの虐殺に使われた武器がフランスから送られたということだ。

隣人が殺人者に変わる時
ルワンダ・ジェノサイド生存者たちの証言

http://www.kamogawa.co.jp/kensaku/syoseki/ra/0609.html

「隣人が殺人者に変わる時 加害者編」(かもがわ出版)を読んだ私としては、隣人の足をなたで切り落とした証言とか、なたも、おフランス製なのかどうかはしらないけれど、武器を提供するという行為がどれほど悪辣なものかとは思う。

武器というものは、これだけあれば安心という性格の商品ではなく、持てば持つほどより持ちたくなる。
ましてや、その武器を使って焦土にしてくれれば、何もなくなったわけだから、いろんな商品を生活必需品を中心に売り込むことができる。
これだけでも、武器はまっとうな商品ではなく、また、武器を販売する者を「死の商人」と呼ぶに値することが納得できるのではと思う。

日本という国も何やら武器を売って儲けようという方向になっているけれど、自分がされて嫌なことを他人にもしないというのは、人として社会を営む上で、基本中の基本であると私は考えるので、いやなふうになってきたなぁと思う。

よく自衛のための戦争というけれど、人類の歴史上、そんなものは存在し得なかったと私は考えるし、軍備は戦争を呼び寄せる。
つまりは戦争になったらどうするかではなく、戦争にならないようにするにはどうするかが大事だと思っている。


2017.12.14

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福島県民お断りの作文全文!書いた中学生は誰?読んで泣きました! を読んで考える

福島県民お断りの作文全文!書いた中学生は誰?読んで泣きました! を読んで考える

http://vivivigirl.com/fukusimakennminnokotowari/


2016年12月10日 ·

このところ、何か、社会に関わることを考えるとき、私は、水俣病と広島長崎に攻撃された原爆から始めることが多くなったように思う.

水俣病の原因企業 チッソ 垂れ流した有機水銀が水俣病の原因だが、その有機水銀はプラスティックの原料を作ることにより生じたもので、プラスティックを利用したことがないという人はいないだろう、そう考えたとき、水俣病という公害病における、まったく無関係の第三者は存在しないということだ.
そう考えたとき、フクシマに因るまったくの第三者は存在しないことになる。
つまり、記事にある「福島県お断り」など、絶対に言うことのできるものではないはずだ。

さて、ここで話を終えてしまうとつまらないのでちょっとだけ踏み込んでみる.
なぜ、「福島県お断り」と考えるのか.
一つは避難してきた人たちは放射能に汚染されていて、近づけば、自分も放射能で病気になるのではないかという不安.それと、多分、日本人固有のと言ってもいい忌むべきものと考えるものに対しての拒絶感がそう言わせるのだと思う.
これは、本音と建前という分け方をするなら、本音の部分だ.
だから、なにを考えているのですか、非科学的ですよと理屈をつまびやかに説明しても、あなた、それが人としての行いなんですかとなじっても、建前の中に隠された本音を変えることはできない。
本音までに到達しないのだ.

しばらく前から興味のあるアドラー心理学的に言うなら、この人たちは、こういう考えであることを、頑固に自分で決定してしまったということだ。
だから、決定した本人自身がその決定を変更しない限り、変わることはない.ただ、変えない決心もしているので、よほどに難しい.

アドラーが後年、教育に強い関心を見出したのも、今の人を変えていく労力を費やすより、これからの人たちに教育していく方がずっと楽なんじゃないか、と思ったのではないかと、私は、本音のところで思っていたりする.

ま、そんなこんなで、ちょっと、私は絶望感を抱きつつあったりする。

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